足助への塩の道に敷かれたレール・名鉄三河線【前編】
ぶらり大人の廃線旅 第15回
木節粘土の採掘地-枝下(しだれ)
先の左カーブの先で「神が降りて来た」御船川を鉄橋で渡るのだが、もちろん厳重な柵で立ち入れない。築堤を降りてあちら側に回ろうと思ったが、上を跨いでいる東海環状自動車道もバリアで、その北側へ行く道はわからない。手元には線路が現役だった頃の地形図だけで、これでは当然ながら不十分である。結局は急がば回れと御舟石まで戻り、遠回りして川のあちら側へ渡った。ざっと30分以上のロスである。昼からの講座に遅れるわけにはいかないので少々焦る。
生コン会社の手前でようやく踏切にたどり着くと「踏切廃止のお知らせ」の看板。平成16年4月1日から廃止になった旨告知するものだが、すでにそれから13年近く時間が止まっている。その先は切り通し区間で、線路脇に残る標識が示す通り20パーミルの急勾配を矢作川に向けて下っていく。しかし途中で丈の高い雑草に加え、線路に倒れかかった多くの竹に阻まれて難儀。このまま逃げ道のない状態で藪を漕ぐのは勘弁なので、左手の茶畑に逃げることにした。
県道を迂回して下っていくのだが、廃線後に西中金経由で足助へ行くバスがこの道を通っている。この付近からが枝下(しだれ)町で、山側に大きく土を抉られた場所を通りがかった。『角川日本地名大辞典』によれば、明治38年(1905)から木節(きぶし)粘土を利用した登り窯による焼物作りが始まったそうだが、地元の枝下町自治区の刊行物では「大正初期に発見」とある。木節粘土というのは木材が炭化した亜炭片が混じることからの呼び名で、質の良さは「東洋一」と評され、昭和50年代まで耐火粘土用に採掘されていたという。
巨大な採掘跡地を過ぎてしばらく降りると、県道のすぐ脇に枝下駅の跡地。地区の代替交通機関である豊田市のコミュニティバス「とよたおいでんバス」の停留所が傍らに立っている。プラットホームの周辺は「わくわく広場」として整備されているが、廃止2年後の平成18年(2006)に住民参加で作り上げたとのこと。レールの上には手作りらしい台車が載っており、きっと子供たちがレール上を動かして遊べるのだろう。広場には周辺の案内図もあり、先ほどの採掘所の話もここで知った。
駅の先には両枝橋(りょうえだばし)が架かっている。両枝という名であるからには、手前の枝下とペアになる「枝つき地名」があるかと思いきや、あちら側は石野町だ。釈然とせずに帰ってから調べてみると、石野町は昭和45年(1970)まで東枝下(ひがししだれ)と称し、こちら側の西枝下とペアだった。この橋を渡った方が次の三河広瀬駅には近いのだが、まずは沿線最大の鉄橋を拝んでからにしよう。
道路に沿った線路をそのまま進むと、25キロポストのすぐ先、柵で塞がれた向こう側に矢作川橋梁が見えてきた。塞がなくても高さ20メートルはあろうかという水面が足下に見えるガーダー橋など頼まれても渡りたくはない。緑色に塗られたガーダー(桁)はまだしばらくは現役でも使えそうだ。
(後編へ続く)
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